経営近代化

西川の経営近代化を推進

12代目甚五郎は、1898(明治31)年に家督を継いだ。室町時代末期からの老舗西川を近代社会に適応させるための基礎は11代目の手によりほぼ完成していた。12代目は、西川をさらに発展させるため、1908(明治41)年3月、西川各店就業規定を制定し、店員制度を改革するなど、西川の近代化を次々と進めていったのである。

1907(明治40)年ごろの東京万

1920(大正9)年、第一次世界大戦による好景気の後を襲った戦後恐慌の被害を最も受けたのは、製織・呉服太物商・綿糸商・綿布商など繊維関係の事業者であった。当時、西川各店は、蚊帳・蒲団・モスリン・銘仙などの卸および小売を行っていた。畳表・蚊帳はすでに全国的に半ば独占的な地歩を占めていたため値下がりを抑えることができ、恐慌の影響はほとんど受けなかったという。

主に備後表、琉球表の買い入れを目的に、1887(明治20)年に設置された大分支店

1923(大正12)年の関東大震災は、西川の東京両店を破壊し、莫大な商品を焼失させた。とりわけ、震災の3カ月前に新築となったばかりの鉄筋5階建てのつまみだな店の建物が、そこに避難させた商品もろとも全焼したことは大きな痛手であった。しかし、近江商人としての本家の財力、2代にわたる八幡銀行経営の成果、本家を中心とする支店組織の完備など、多年にわたって培ってきた西川家の総力を結集し、震災後の緊急の需要に対して供給が途絶する中で、寝具を並べて直ちに営業を再開させたのである。罹災者に必要な商品はまたたく間に売り切れ、西川の店員は昼夜なく働き商品を提供した。

大正の終わりから昭和の初めにかけて、日本は不景気のどん底にあった。このころ西川では、百貨店を業とするべきか、専門店としての道をいくべきか、という問題が真剣に取り上げられていた。ここにおいて、12代目甚五郎は、専門店としての道を歩むべきであるとの方針を明確に打ち出したのである。

1923(大正12)年6月、新築した鉄筋5階建ての西川商店と日本橋
(矢印が西川商店)
1923(大正12)年9月、関東大震災によって大被害を受けた西川商店と日本橋
(矢印が西川商店)
昭和初年ころ、日本橋西川商店の全店員

西川商店の経営に新風

昭和初期は、日本の歴史上でも激動の時期であった。この苦難の中にあって、1936(昭和11)年、12代目から13代目に家督相続が行われた。13代目は家督相続に先立ち、経営学の研究のためにアメリカへ留学している。13代目はアメリカ式経営学をマスターしたのち、イギリスに渡り英国経営学も身につけた。1930(昭和5)年に帰国し、わが国の商店経営学の指導的立場として各業界の指導に貢献するとともに、西川商店の経営に新風を送り込んだ。

13代目甚五郎

1940(昭和15)年になると、物資・物価の諸統制はますます厳しくなり、商売上の難関に相次ぎ直面した。13代目甚五郎は商道を守り、老舗として連綿と存続することの重要性を痛感し、1940年10月に「店員諸君に諭す」という通告を発して、全員の奮起を促している。

1941(昭和16)年に太平洋戦争に突入し、商売そのものが極めて困難な時代に、13代目は経営の近代化を目指した。戦時体制下にあって、大阪店は海軍の監督工場として、また東京店と京都店はともに陸海軍の仕事をして、軍扱いの作業衣・蚊帳・毛布を納入した。

同年には、商工省発令の企業整備法令を機に、西川商店も、東京・大阪・京都それぞれに、製造部門、卸売部門、小売部門と、個々独立の株式会社を設立した。

1945年、終戦を迎え、国民は戦後の混乱とインフレの中、苦難の道を歩んだ。1947年、私的独占禁止法が公布され、1948年には不必要な統制が撤廃され、応召・徴用の店員も順次復職した。西川各社(株式会社西川〈日本橋・心斎橋〉、西川産業、大阪西川、京都西川)も戦後の復興を期して、より近代化を目指して、商道に打ち込んでいった。幾多の先人が非常のときを乗り越えてきたのと同様に、フロンティア精神を忘れることなく、西川の信用を堅持し続けている。

1945(昭和20)年、戦災焼失後復興した日本橋西川ビル
(1956〈昭和31〉年撮影)
創業400年当時撮影の日本橋西川ビル