「蚊帳・蒲団の西川」の確立

天保改革下での積極経営

7代目は1802(享和2)年に隠居し、長男・宗十郎を立て、8代目利助として家督を継がせた。この8代目は三ツ割銀制度の改革に優れた手腕を見せたが、家督についてからわずか10年後の1812(文化9)年に隠居している。

9代目甚五郎は、7代目の孫で、1812(文化9)年に7代目の後見の下、わずか8歳で家督を継いだ。1841(天保12)年、幕府は当時の物価騰貴の社会情勢に対処するため、流通組織の大改革に着手し、旧来の十組問屋仲間をはじめ株仲間を解散させ、物価値下げ令を発した。いわゆる天保の改革である。これによって世は不景気となり、西川家も大きな影響を受けて、つまみだな店、万店ともに、売上高が大幅に減少した。

このように幕末の政治・経済情勢は、西川家の営業にさまざまな困難をもたらすことが多かった。それにもかかわらず、売上高の推移をみると、急速に増加の傾向をたどっている。こうした困難な時期に、9代目甚五郎は積極経営で事業を発展させたのである。

9代目甚五郎
江戸御本丸御用(左が裏、右が表)
武士からの注文に対する納期遅れを回避するため、東海道・中山道の運送の特権である「幕府御用荷物」(御用 御弓師 近江屋作兵衛)を得た
幕府御用金
14代徳川将軍が長州へ進発したときの1, 800両の上納金の証書と、2, 550両の売掛金残の証書。西川家が幕府への恩義に報いた一端である

「蚊帳・蒲団の西川」の確立

9代目は、長女・しほに蒲生郡中野村の小島弥左衛門の八男・甚三郎を養子に迎え、1845(弘化2)年に家督を譲り、10代目甚五郎を襲名させた。

しかし、10代目が1853(嘉永6)年に早逝し、10代目の次男・伊三郎が5歳の幼年で跡を継ぐこととなった。

時代は明治に移り、日本の社会が大きく転換する中、西川家は1876(明治9)年、大阪本町に大阪店を開設した。その目的は、青莚(あおむしろ)<琉球表>をつまみだな万両店へ仲介することであった。好景気の中で大阪店の経営は軌道に乗り、1879(明治12)年には、大阪店でも青莚の卸・小売を開始した。さらに1887(明治20)年には、店舗を移転するとともに、蒲団の取り扱いを開始した。

10代目甚五郎

また、大阪店に次ぐ畳表の強化策として、尾道支店を1886(明治19)年、広島に開設した。その後1887(明治20)年に大分支店を、1890(明治23)年に杵築支店を開設し、備後表・琉球表の買い入れの円滑化を図った。

大阪店に次いで東京両店でも蒲団の取り扱いを開始した。明治維新後、弓の営業がほぼなくなってからは、西川家の主要商品は蚊帳と畳表の二つになっていた。このときに蒲団を加えたのは、単に弓の穴埋めだけにとどまらず、生活必需品の商品化の拡大という新時代の動きをいち早く見通したことによるものであった。特に蚊帳が夏に集中する季節商品であったことを考えるならば、冬に集中する蒲団を加えたことは、経営の安定面でも大きな意味があった。こうして、「蚊帳・蒲団の西川」の基盤が築かれた。

11代目甚五郎は、1881(明治14)年に八幡銀行の開業に出資し、1894(明治27)年には八幡製糸株式会社の設立に尽力するなど、経営の多角化へも注力していった。また、1883(明治16)年7月から1891(明治24)年8月まで、滋賀県議会議員を務めるなど社会的活動にも貢献している。

Column黒船来航

1853(嘉永6)年6月3日、浦賀沖にペリー提督率いる4隻の黒船が来航し、大統領の親書を幕府に提出した。翌1854(嘉永7)年2月13日、ペリーは再び7隻の黒船を率いて来航し、横浜で日米和親条約を調印した。これでわが国の鎖国は破られ、以後外国に向かって広く門戸を開くことになった。