伊藤紺さん連載【1週間のタオル】1週間の疲れを溶かす金曜22時のタオル<むくわた>
2022.03.01
楽しむうれしいときも、さみしいときも、疲れきったときもそばにいてくれるタオル。日々を生きる心と身体をふわっとやさしく包みます。
歌人の伊藤紺さんが綴る、あなたに寄り添うタオルの物語。今回の舞台は金曜22時。疲れから回復する女性のお話です。
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金曜の夜の下り電車はちょっと浮かれた空気で、誰かと飲みに行きたいような、でも自分から誘うほどでもないような、微妙な気持ちだった。動かないスマホの通知欄を見るたびに退屈がむくむくと膨らむ。膨らめば膨らむほど手に負えなくなって誰に会いたいのかも会いたくないのかもわからず、ただぼんやりと、そのくせ切実に連絡を待っている。3月と言っても日が伸びたくらいで気温はほぼ真冬だった。両隣のダウンコートに圧迫されて小さく座っている。あと3駅。家に着いてしまう。
1ヶ月前に健一と別れた。お互いの嫌な部分をお互いに見過ごせない時間が長く続き、何度も話し合っていた。ので、心の準備ができてないわけではなかった。ひょんなきっかけから始まった別れ話はすんなり進んで、あっさり別れた。どんな恋だろうと、何回めの恋だろうと、もはや恋ですらなかろうと、別れはちゃんとつらい。心臓に割れたガラス片が散らばったまま、会社に行ったり、笑ったり、驚いてみせたりしている。痛くないわけがない。
一人暮らしの家は、夜帰って来る頃にはすっかり冷えている。暖房を入れて、テレビをなんとなくつける。ソファに座ったとき「疲れたな」と思った。TVに映っているのは結構好きな芸人なのになんだかまったく笑えない。そのまわりで爆笑しているタレントを見ているだけでしんどくて、まずい感じがした。なんでもいいから何かをしなきゃ。このまま何もしないとどんどん沈んでもっと疲れてしまいそうで、振り切るようにソファから立ち上がった。そうだ、お風呂に入ろう。おみやげでもらった入浴剤を今日こそ使おう。先月会社の同僚がプレゼントしてくれたいいバスタオルもおろそう。
湯船を洗うのは、なかなかめんどくさい作業だ。上下の服をまくしあげていてもどこかしらが必ず濡れる。お腹の部分が濡れないように気をつけながら、体を折り曲げて湯船の底を洗う。お風呂洗いの大変さは、お風呂に入るという行為に対して少々見合っていない気がする。「こうまでして毎日お風呂に入るなんて、日本人って相当お風呂が好きなんだなあ…」と人ごとのように思いながら泡を流す。
わたしは普段シャワー派だけど、健一はお風呂が好きだった。健一の家はユニットバスで、うちに来るといつも湯船に浸かっていた。同僚にもらったいいバスタオルをしばらくおろしていなかったのも、健一に先に使わせてあげたかったからだ。それは彼優先で尽くしていた、ってことではなく、わたしよりお風呂が好きな健一のほうがきっとバスタオルを喜べるだろうし、そのうれしい顔を見られるほうが自分も満足できるからだった。
ひさびさのお風呂は気持ちよかった。静かで居心地がいい。わたしは無音もわりと好きだけど、健一はしゃべっているときでさえ、テレビがついているのを好んだ。べつに気にしていなかったけど、ひさびさにこうして音がないところで落ち着いていると、どこか合わせていたんだなと思う。あとから考えれば考えるほど、些細なちがいの多い恋愛だった。別れてよかったんだとはっきり思う。それがうそや強がりのない気持ちであることに間違いはなかった。
お風呂から上がって、バスタオルのラッピングをほどく。<watairo rich (むくわた)>というタオルらしい。両手にとって顔をふくと、「タオルなのか…?」と思うほど、ふわふわで温かかった。もらったときからやけにボリュームのあるタオルだと思っていたけど、軽く肉厚で、肩にかけるとそれだけでガウンを着ているかのような安心感があった。こんなタオルがあるのか。
そのとき胸がちくっと痛んだ。健一がこのタオルを使ったら、どれだけ大げさに喜んだだろうと想像してしまった。きっといつものように目を見開いて、わざと全裸で報告しに来ただろう。「服着てこーい!」ってわたしは即座につっこむだろう。すごくおいしいものを食べたとき、逆にすごくまずかったとき、1万円だけどスクラッチの宝くじが当たったとき、水族館でへんな魚を見つけたとき。一緒に大げさに喜んだり、お腹を抱えて笑いあった映像が続けざまに蘇った。
失恋は初めてじゃない。こうやって古い映像をなんども脳内で繰り返しながらだんだん大丈夫になることをよく知っている。10代後半の初めての失恋の何倍、何十倍マシだろう。ちゃんと乗り越えられる痛みだとわかっているってすごく大きい。しんどいけど、絶対に大丈夫。いまもちゃんと回復している途中なのだ。そうは思えなかったとしても、その予感があるとないとではつらさがまるでちがうものだ。
服を着て、ドライヤーで髪を乾かしているとき、帰ってきたときよりずっと気持ちが楽になっていることに気づいた。今日は寒かった。だいたいの漠然とした不安やつらさは、寒さとか疲れとか眠さのせいで、心そのものに原因があることは意外と少ない(あるとしたら、それは本当に深刻なときだと思う)。あたたかさと睡眠とちゃんとした食事でうんとやわらぐものだ。お風呂に入って正解だった。
お腹も空いていたので、適当なおじやを作ってぼんやり食べてるとスマホが鳴った。近所に住む由香からの飲みの誘いだった。「お風呂入っちゃった。うちでもいい?」と送ると、すぐに「お酒買ってくよ」と返事が来た。人から連絡が来るタイミングというのは本当に不思議だ。こうやって気にかけてくれる人がいることのありがたさをしみじみ思う。さっきまでの疲れと退屈に飲み込まれそうになっていたわたしだったら、こんな静かな感謝は湧かなかっただろう。表面だけ浮かれた気持ちで、きっともっと疲れる飲み方をしてしまっただろう。電車の中で誰からも連絡がこなくて本当によかった。「由香、ありがとう」と思いながら、最近よく使うクマがグッドポーズをしているスタンプを送って、わたしは部屋を片付け始めた。
<今回のタオル>
歌人・コピーライター
伊藤紺さん
2019年歌集『肌に流れる透明な気持ち』、2020年短歌詩集『満ちる腕』を刊行。ファッションブランド「ZUCCa」2020AWムックや、PARCOオンラインストアの2020春夏キャンペーンビジュアル、雑誌『BRUTUS』『装苑』等に短歌を制作。2021年浦和PARCOリニューアルコピーを担当。過去連載に写真家・濱田英明氏の写真に言葉を書く、靴下屋「いろいろ、いい色」。(Instagram/Twitter)
2019年歌集『肌に流れる透明な気持ち』、2020年短歌詩集『満ちる腕』を刊行。ファッションブランド「ZUCCa」2020AWムックや、PARCOオンラインストアの2020春夏キャンペーンビジュアル、雑誌『BRUTUS』『装苑』等に短歌を制作。2021年浦和PARCOリニューアルコピーを担当。過去連載に写真家・濱田英明氏の写真に言葉を書く、靴下屋「いろいろ、いい色」。(Instagram/Twitter)
Photo | Ryo Tsuchida
<watairo rich (むくわた)>
アメリカ産超長綿(ピマ綿)の細番手をひねりのない無撚糸にすることで、柔らかさを存分に引き出したリッチなタオル。パイルを超ロングにすることでボリューム感のあるむくむくとした風合いになり、肌をやさしく包み込んでくれます。
バスタオル:¥8,800(税込)
フェイスタオル:¥3,300(税込)