bar bossa林さんの連載小説『タオル越しの、あの人 vol.11』
2019.08.14
楽しむ東京・奥渋谷に佇むbar bossa。店主の林伸次さんは、カウンター越しにたくさんのお客さまの人生を見てきました。
泣いたり、安心したり、汗をかいたり、眠ったり…生きているといろんな瞬間が訪れます。ちょっと目を向けてほしいのが、どの場面にもひっそりと、柔らかいタオルがあるということ。タオルは大切な瞬間、あなたの傍らにいるんです。
そんな『タオル越しの、あの人』の物語を、林さんが書き下ろします。今回は、ファーストキスにまつわるお話。
*****
「先生のファーストキスって、どんな風でしたか?教えてください」と、2年生の松田洋子が言ってきた。
僕は38歳で、私立女子高校の教師をしていて、美術部の顧問をしている。いま、僕たちは放課後の美術室にいて、松田洋子はほかの生徒が帰ったのを見届けてから、さっきの質問を僕にした、というわけだ。
この年頃の女の子たちは、突然こういう質問をする。本当にキスに興味があるのだろうし、僕たち教師が質問に戸惑う様子を観察したいという気持ちもあるのかもしれない。
***
20年前、高校3年生のとき。僕は夏休みに入る直前の終業式のあとに、廊下で同じクラスの井上さんに「好きです。付き合ってください」と告白した。
僕たちが通っている私立の高校は、そのままエスカレーター式で大学まで進学できる。この長い夏休みの間、大好きな井上さんのことを家で思い詰めるのはカラダにも心にも良くない。いっそ告白してしまおうと思ったわけだ。
井上さんは去年、別の女子校から転校してきたおとなしいタイプ。色白の美少女で、髪の毛は長くて腰あたりまである。昼休みは図書館で読書しているのを、よく見かけた。
井上さんは僕の突然の告白に、とても驚いた顔を見せた。そして、僕と井上さんが廊下で話していることに、まわりのうるさい女子たちが気づき始めた。
僕たちの学校では、当時はやり始めていた携帯電話の使用が禁止されていたので、話の続きは“イエ電”しかない。僕は、用意しておいた自宅の電話番号を書いたメモを井上さんに渡し、「もし良ければ、この続きは電話で聞かせてください」と言って頭を下げ、そのまま振り返らずに廊下を走って学校の外に出た。
そして、夏休みが始まった。
電話がいつ鳴るのか、もしかして鳴らないのか──僕はずっとずっと待ち続けた。母さんが、僕が大好きなカレーライスに全然手をつけないのに気づいて「大丈夫?」と言ってきた。電話は夜9時を過ぎたころにかかってきた。僕は大急ぎで受話器をとって、電話機を抱え、リビングの外の廊下に出た。
電話の向こうで「こんばんは。高野くんと同じクラスの井上と申しますが」という声がした。
「井上さん、僕です。高野です」
「あっ、高野くん。良かった」
「今日はごめんなさい。突然、あんなこと言ってしまって」
「ううん。あの、もし私で良ければお付き合いしてください」
僕はその場で倒れそうになった。
「えっ?ほんと?本当に?…ウソじゃなくて??」と、僕はしどろもどろになってしまった。
「本当ですよ」という井上さんのかわいい声が、受話器の向こうから、僕の家の暗い廊下に響いた。
僕は頭の中が真っ白になってしまって、「ええと、ええと、じゃあどうしようか、ええと…」ばかり繰り返していると、井上さんが「明日、どこかで会いませんか?」と言った。
「うん、それだ、それ。じゃあ吉祥寺駅のJRの改札に12時でどう?」
「わかりました、吉祥寺駅のJRの改札に12時ね」
次の日、吉祥寺で会った井上さんの私服は水色のワンピースに白いパンプスで、ずいぶんと大人びていた。僕はたぶん、顔が真っ赤になっていたのだと思う。井上さんのことを真っ直ぐに見られず、「待った?」とだけ言った。
井上さんは「いま来たところ」と言いながら、僕の横に来て「どうしようか?」と言った。
「動物園に行こうか」
「いいね。象のはな子。私、幼稚園以来かも」
僕たちは、夏休みが始まったばかりのチビっ子たちでいっぱいの動物園を散策した。猿山では結局、どの猿がボスなのか判明しなくて、「わかんないもんだね」と言い合った。そして井上さんが「雨が降ったらこのお猿さんたち、みんなどうするんだろう」とポツリと言った。僕は「雨が降ったら、また一緒に来て確認してみようよ」と言った。
その後、僕は計画どおりモスバーガーに誘って、そこで1時間くらい話し込んだ。井上さんは笑うと本当にかわいくて、僕は井上さんの笑顔が何度も見たくて、いろんな馬鹿話をした。
井の頭公園を2人で歩いていると、井上さんがこんな話を始めた。
「私ね、前の女子校だったとき、学校の先生と付き合っていたの。その人も私に本気だったと思うし、私もすごく本気だった。でもその人が、『やっぱり別れよう』って言って別れちゃった。高野くんには言っておいたほうが良いと思って」
僕はどうやって答えて良いのかわからなくて、「そう、そうなんだ」とだけ言った。夏の夕方の井の頭公園に、涼しい風が吹き始めていた。
その日から僕たちは、ほぼ毎日のように会ってデートをした。映画にもディズニーランドにも横浜にも行った。街を歩いていると男たちがみんな井上さんのほうを見た。井上さんは本当にかわいかったからだ。
夏休みも終わりに近づいたある日のこと、僕は「暑いし、お金ないし、ウチ寄ってかない?」と言ってみた。
井上さんは「えっ?」という表情を見せたけど、「うん」と言って僕についてきた。ウチには、もちろん誰もいなかった。
僕は井上さんを僕の部屋に案内し、急いでコーラとポテトチップスを用意して、部屋に戻った。井上さんは僕の机の上の、井上さんが写った写真を見ていた。
「コーラ、冷たいうちにどうぞ」と言って井上さんに渡すと、「うん」と言って小さい口でコーラを一口飲んで、「ねえ、高野くんキスしたいの?」と言った。
僕はうなずくと、井上さんが目を閉じて僕に近づいてきて、そしてキスをした。
「高野くん、ファーストキスでしょ?ごめんね、私ファーストキスじゃなくて」と言って、井上さんが突然泣き出し始めた。僕はどうしていいかわからなくて、椅子にかけてあったタオルで井上さんの涙を拭こうとした。
井上さんは僕からタオルを受け取ると、涙を拭いてこう言った。
「なんかごめん。いろんなこと思い出しちゃって。その付き合ってた先生、絶対に外で会ってくれなかったの。外だと誰が見てるかわからないからって。生徒や学校にバレるのを本当に恐れてて。なんだ、私ってその程度なんだっていつも思って。別れるときにも『君は同い年の男の子と普通の恋をしなさい』なんて言っちゃって。ごめんね、高野くん。なんか普通の恋ができなくて」
「ううん。そんなことないよ。僕は井上さんが大好きだし、いま、キスできてすごくうれしかったし」
「ありがとう」
***
「そしてその井上さんが、いまの僕の妻」と僕が告げると、松田洋子が「え、先生、なんかすごく良い話です。私、先生のこと好きだったんですけど、もっと好きになりました。でも奥さまのこと愛してるんですもんね。私、先生にいつか告白して、ファーストキスは先生にあげるって決めてたんですけど、今日諦めました。よし、私も素敵な恋をしよう」と言って席を立ち、「じゃあね先生」と頭を下げて、美術室を出て行った。
僕は「いつか雨が降ったら、久しぶりに妻と子どもと3人で井の頭公園の動物園に行かなきゃ。猿が雨の日にどうしているのか確認するって約束したの、妻は覚えてくれていると良いのだけど」と思った。
****
これまでの『タオル越しの、あの人』は、コチラ
bar bossaバーテンダー
林伸次さん
1969年徳島県生まれ。レコード屋、ブラジル料理屋、バー勤務を経て、1997年渋谷にbar bossaをオープンする。2001年、ネット上でBOSSA RECORDSをオープン。選曲CD、CD ライナー執筆多数。『カフェ&レストラン』(旭屋出版)、『cakes』で、連載中。著書『バーのマスターはなぜネクタイをしているのか』(DU BOOKS)、『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』(幻冬舎)。韓国人ジノンさんとのブログ。
林さんのTwitter(@bar_bossa )。
1969年徳島県生まれ。レコード屋、ブラジル料理屋、バー勤務を経て、1997年渋谷にbar bossaをオープンする。2001年、ネット上でBOSSA RECORDSをオープン。選曲CD、CD ライナー執筆多数。『カフェ&レストラン』(旭屋出版)、『cakes』で、連載中。著書『バーのマスターはなぜネクタイをしているのか』(DU BOOKS)、『恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。』(幻冬舎)。韓国人ジノンさんとのブログ。
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